2014年8月10日日曜日

旅での出会いと報道と − 気ままにぐるりと2000km Part 5


2012年2月。
Kaikoura (カイコウラ)での目覚めは雨音だった。空は明るく青空も見えているのにだ。そのうち晴れて来るだろうと期待して、近くのベーカリーに行ってハムチーズ入りクロワッサンとペストリーとコーヒーを買う。それを持ち帰ってバックパッカーの広いキッチンに腰を下ろした。

昨晩はこのキッチンでここに泊まっていた若者達にまざってビールを楽しんだ。9人中7人ががドイツ人だった。彼らはNZのビールは今ひとつと言いながらオランダ産のHeinekenを飲んでいた。

どうやら今、ニュージーランドを回っているバックパッカーの殆んどはドイツ人だという。そういえば昨日のレセプションの彼女もそう言っていた。まさに流行りであるのだろう。まだまだNZの良さがわかっていない若者だった。

私がこの国に初めて来た18年前に国内を回った時にも確かにどこに行ってもドイツ人はいたが、それほど多いとは思わなかった。でも、その旅先で何かの拍子でつるんでいたのは不思議とドイツ人が多かったのもの面白い。日本人との気質・環境・感覚が合うのかもしれないと、その旅を通して感じた事だった。

ただ、その時折つるんだドイツ人の彼はでっかいタトゥーが肩にあり、Red Hot Chili Peppersが大好きで、古い赤いBMWに乗り、後ろ髪を縛った志村けんとシルベスター・スタローンを足して2で割った顔つきの彼が母国で小学生の先生をやっていると聞いた時は、ちょっと日本じゃないな、と感じたのは確かだが。


さて、雨は霧雨状態になった。時々止むくらいなので出発しよう。路面が濡れているのでパンツの裾が濡れるのはすぐのことだったが先に進むにつれ晴れてきてすぐに乾いた。

道程は昨日と同じ様にしばらくは左手に海を見ながら南下する。この国では数が少ないトンネルをいくつか通るのがこの道の特徴だ。海に別れを告げ峠を一つ越えるとほぼ平坦でそんなに特徴のない道が続く。

そう言えば、最初にカイコウラを訪れた時は'69のMini Clubmanで旅をしていた時だった。やっぱり宿で一緒になったドイツ人の結構目上のお姉さんをクライストチャーチまで乗っけてきたことを思い出した。ヘビースモーカーで私が吸わないものだから、たびたび止めては一服していた。

どうして取得していたのか聞かなかったけど、NZの永住権を持つ彼女は本国からの旅だった。もう、ここに住む気はないと言っていた。人にはいろいろ理由があるものだ。

2時間ちょっとを走りChirstchurch (クライストチャーチ)に着いた。あの地震直後以来の訪問だ。地震のあった次の日から報道の手伝いで借り出され5日間を過ごしたが、どこもかしこも本当に悲しい風景だった。

日本の偏った報道には手伝いながらもうんざりだった。更にその残念感は実際に報道をしている彼ら本人達もやりたい事をしているという訳でもない事だった。東京のオフィス本部からの命令に従うしかなく、心では嫌がりながら嫌がる仕事を部下に実行させ、その部下もそれが生きる糧になっているということだ。突くと彼らの告白も多くなった。
もちろん報道に携わる全ての人がこれに該当する訳ではないだろうが。

しかし、世界から集まった報道陣の半分以上を日本の局が占める有様は誰の目にも異様に映った。その人達が町に入る事で被害にあった市民の生活を圧迫したのは間違いがない。カメラ機材はがっぽり持って来るけども、食料は殆ど持ってこないで、現地にある限られた食料で賄おうというのだから。

必要過多と思われる報道陣が泊まっているのが理由で世界から駆けつけてくれたレスキュー隊の為の宿探しなどもおそらく相当に苦労したはず。お祭り騒ぎもいい加減にしてもらいたいと心底から思った。

そんな思い出まであるクライストチャーチ、そこを訪れたのはこの時、ちょうど1年後の事だった。被害の大きかった都市の中心部はまだまだ何も変わってないと言える程の状態に驚いた。国の中で2番目の大きさを誇る町が未だにこの状態であるというのが信じられなかったのだが、少ない国民で広い全土を支えているのだから、しょうがない事なのかもしれないとも思う。

逆に言えば、入植以来たったの150年くらいでそこまで発展したという現実を見るとものすごい事なのだなと考えられる。

ちなみに2014年の今現在、ゆっくりゆっくりと復旧し始めている。
これからの復旧も期待したいものだ。

Hagley Park (ハグレー・パーク) に行ってみるとそこには地震の前と同じ様にごくごく平凡な平和な世界が広がっていた。

このまま町を後にして走り続けた。



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